2014年7月3日木曜日

ヴァレリーの手紙

 締め切りにとても遅れてしまっているジャルティのヴァレリー伝の訳稿チェックを進めています。大冊の分担訳ですが、分担とはいっても小さな本1冊分くらいは優にあり、難渋を強いられています。ただ、この結婚後の生活をあつかった第18章の末尾に引かれている手紙にはあらためて感動してしまいました。若い頃から交友があったもの、ドレフュス事件を期に疎遠になってしまったマルセル・シュウォブが亡くなったさい、この友人が自分にとって持っていた意義をルイスに宛てて書いたものです。

 シュウォブの葬儀に行ったのは、彼ともう一度話がしたいと思ったのと同じ理由からだった。彼の死も、ぼくたちが離別した日も、彼がぼくに対して持っている意味を変えることはできない。
 彼のような人物がひとたびぼくの内的神話世界、つまりぼくの精神を強く刺激したり締めつけたりする諸精神がなすシステムのなかに入ってくると、それは、ぼくの力能以上に深くぼくの内部に住みついてしまう。いかなる印象も、新鮮なものであろうと新しい状況であろうと、その重要性を変えたり隠したりすることはできないのだ。
 知りあいになりうる諸個人の小さなサークル、自分を有用かつ厳密に測る物差しとなりうる人物たちのなかで、シュウォブはぼくが見出したぼくとは最も異なる男のひとりだった。幸運にも、ぼくたちの比較不可能な個性は、しばらくの間、各自の性質に応じてたがいに深めあったり理解しあったりしたいと思う好奇心をそれぞれ抱いたのだ。
 彼の注意を引き留めるほとんどの対象はぼくには未知のもの、ないしは疑わしいものだった。しかし、その反対は真ではない。ぼくは学識というもの、膨大な数になる書物そのものが怖い。要するに、知性の行為に解消されないあらゆる知識、内的体操選手がなす普遍的な諸々の動きを純粋に結びつけないあらゆる知識が恐ろしいのだ……。どうして、遠い昔の本のページのなかに驚嘆すべきものを探しもとめなければならないのだろう? というのも、ぼくにとって驚嘆すべきものに価値があるとすれば、それはそうしたものを作りうる能力のうちにしかないだろうから。等々。
 シュウォブはこれとは別のやり方を知ることを、知らず知らずのうちにぼくに強いたのだ。そして、ぼくのうちの根本的な偏見を破壊しなかったとはいえ、この偏見をもっと明確にし、ぼく本性の諸公理をより緻密に作りなおすようぼくに仕向けたのだ。
 こうしてシュウォブとつき合ううち、ぼくはふたりの相違と彼自身のタイプとを、ぼく自身を定義する不可欠な要素とみなすようになった。ぼくは省察するとき、彼の姿を思い浮かべ助けを求める。彼はどんな反論をするだろうかと考えてみる。ぼくにとって彼を思い出すことは、ぼくの自発的な思考が持つこうした欠落や彼岸を意味するのだ……。
 だから、ぼくたちの会話を、すくなくとも最良の会話を、いつだって再開することがぼくにはできたのだ! 君が偶然を装った機会をうまく仕組んでくれるのを待っていた。でも偶然は恐るべき手段を持っているのに今回はわれわれの自由にはなってくれなかった!
 君がしてくれたこと、しようとしてくれたこと、ぼくに書き送ってくれたことに感謝している。本当のところを言うと、君に尋ねる勇気がでなかった。君が何かうまくいかない状況に陥っているのではないかと思っていたのだ。しかし、君のおかげでこれが杞憂だったと分かったいま、ぼくは和解を試みたことに満足しているし、こうした気持ちをシュウォブも分かっていてくれたらと思う。
(1905年3月2日付けのルイス宛ての手紙。Correspondances à trois voix, Gallimard, p. 951.)

0 件のコメント:

コメントを投稿