2013年8月19日月曜日

「孤独」の意義

 8月。見ようと思っていた映画も見に行かずに、禁欲的に論文執筆の準備。授業がないと、勉強している感じになる。ほんと、「夏期研究期間」なんですよ、「夏休み」ではなく。

 必要があって読み返している文章で次のハイデガーの言葉に突き当たった。この数年、強く思っている「孤独」の意義。孤立してはいけないが、孤独を確保するのは、現代にあって必須のことである。

 「都会人はしばしば山々の農夫の間での長く単調な独居に驚かされる。だがしかしそれは独居では少しもなく、孤独ということなのである。大都会で人間は、他のいかなるところでもないほどたやすく、一人であることができる。けれども彼はそこでは決して孤独ではありえないのだ。というのは、孤独は、根源的な力をもっているからであって、この力は、われわれをばらばらにしてしまうのではなく、現存全体をいっさいの事物の本質の間近に解き放つのである。」(ハイデガー「なぜわれらは田舎に留まるか?」、矢代梓訳、『30年代の危機と哲学』、平凡社ライブラリー、p. 131)

2013年8月3日土曜日

ボジャノフ in ワルシャワ




 どうにかこうにか夏休み。いや、夏期研究期間だ(笑)。とはいえ、夏学期は6月初旬以来、断続的に風邪をひき(二度ほど寝込んだ)、散々な体調だったので、とりあえずすこし骨休めをすることにした。蓼科に行き、根を詰めず、ゆるゆると必要な小説類(ヘルマン・ブロッホ『夢遊の人々』)を読み進めてきた。とにかく体が冷えやすく、クーラーがしんどい、大学や電車の中でも、まわりが半袖を着て暑そうにしているところに、長袖を着てジャケットまで羽織っている仕儀となる。いや、汗はでて暑いのだが、体は冷たくなっている、というありさまで、自分でもどう理解していいかよく分からないが、体質がかわってしまったのかもしれない。冷たい飲み物も鬼門、温かいお茶をいれてちびちびと飲むことになったし、アルコールもほぼ絶って2ヶ月を過ごした。夜も、半袖だと寝覚めをしかねないので、長袖をさらに羽織って寝ていた。かのポコペン先生は、夜中に夜具をはいでしまい寝冷えをしたとブログで何度も書いておられたが、どうも私も、学識はともかく、体質だけでいえば、先生の域に達しつつあるのだなあ...

 先日教えてもらったエフゲーニ・ボジャノフのワルシャワ・ライブのCDが届いたので聞いてみた。 彼は2010年のショパン・コンクール第4位だが、私見では、優勝したマリアンナ・アヴデーエワよりも遙かに優れたピアニストであると思う。荒削りなところはあるし、表面的にうまくまとめてしまうことにはなんの興味ももっていないから、コンクール的にはあまり順位があがらないのかもしれないが、前回のブレハッチ、今回のアヴデーエワと、表層的完成度がきわめて重視されるという傾向はやはりたしかにあると思う。しかし、ボジャノフは、既成の枠に収まらない異端児、などといって済ませてしまえるようなレベルの才能ではない。コンクールで彼が弾いた幻想ポロネーズは、おそらくこの曲の演奏史上最高の演奏のひとつであることはまちがいないし、これを他の参加ピアニストたちと比べてみると、ボジャノフが目指しているのが、とても大きなスケールの音楽であることがただちに理解できるのだ。

 CDはショパンの舟歌やマズルカ、ワルツ、シューベルトのドイツ舞曲集、ドビュッシーの喜びの島、リストのペトラルカのソネット、メフィストワルツ。全体に、舞踏曲が多い....

 ジャケットにおさめられたインタヴューで、ボジャノフは、自分の音楽との出会いはオペラで、たとえば、『セヴィリアの理髪師』を聞いて、次の日にピアノ編曲版を借りてきてそれを弾く、というのが最初の音楽的体験だったと述べている。彼の根本にはオペラ音楽があり、それを彼はピアノで日々弾いていたわけである。少年ホロヴィッツがワーグナーをピアノで弾いて遊んでいたのを彷彿とさせる逸話だ。彼の音楽のなかに、「劇的」なものがある理由がこれでよくわかった。

 同じインタヴューで、ボジャノフは自分があるときに、音楽的メッセージよりも音響のattractionの方が大事であることに気づいたとも述べている。それで、ピアノの響きを規定するさまざまな条件を考えたのだと。たとえば、グールドやホロヴィッツのように低く座ると音色に細かい配慮を払って弾くことができる。高く座ると、全体を統御するにはいいが、こういうことはできなくなってしまう。そういえば、ショパン・コンクールでの彼の座り方は低めで、不思議な印象を与えるものだった。

 ボジャノフの魅力。圧倒的なテクニック。しかし、それがいわばオペラ的な音楽の楽しい見せ方と分離していない、そして音楽のドラマ的構造を際立たせるために、音の響きや輝きに細心の注意を払っている。聞いていて楽しいし、驚きもある。これであと高速パッセージの音の粒がもっとたち、 高音にもっと艶が出てきたら、相当すごいことになるのではないか。

 すくなくとも、同時代の若手をきいて、昔の巨匠のフェイクだと感じずに、偉大な未来が想像されるというのは、一聴者にとっては、これにまさる喜びはない。86点。

2013年6月16日日曜日

新『大岡越前』──時代劇の終焉

 BSでやっている『大岡越前』(三方一両損)の録画をざっと見た。朝日では加藤剛版の完全リメイクだというので、かなり期待していたのだけど、うーん、これはカツラをつけたホームドラマだ... 時代劇はもちろん時代の世相を反映する現代劇でもあるのだが、身分の違いや長幼の序が劇の基本的な前提としてきちんと感じられないと、お茶の間か教室でわいわいやっているのと違わなくなってしまう。国仲涼子(忠相妻)などは 松原智恵(忠相母)にむかって「母上ったら」などと言っていたが、あんなセリフを書く脚本家のセンスが知れない。状況によっては「おかあさまったら」はありえても、「母上」と「ったら」は日本語として結びつかないはずなのだが......。全体にセリフはゆるみまくっていてキレがなかった。さらに津川雅彦(忠相父)も迷走している。今回の話では、頑固一徹で騒動を起こす役回り。とはいえ、この経験豊かな老優も、町奉行の隠居した父親という「身分」はどこかに忘れてしまったようで、現代の頑固じじいがカツラをつけている以上の印象を与えることができなかった。時代劇って、『水戸校門』でも、また先日の『鬼平犯科帳』ですら思ったことだが、もう完全に終焉したジャンルなんだなあ。夫婦や親子の対話がたんなるホームドラマになり、侍と町人とが完全にフラットな関係に見えてしまうなら、時代劇の基本的な前提は消えてしまっている。それはもちろん社会が平等になってよいことではあるけれど、作品表現としてはデタラメであろう。

 ひとつだけ、東山紀之は加藤剛には遠く及ばないけれど、わりあいよい。

2013年6月11日火曜日

ホロヴィッツ・ライヴ・アット・カーネギー・ホール(41枚組)

 資本主義というのは人にストレスを与えて、それで衝動買いをさせるシステムだと、私は考えている。

 で、そういうわけで、先日、「ホロヴィッツ・ライヴ・アット・カーネギー・ホール」(41枚組) を予約購入することになった。曲目を見ているとほとんど持っているのではないかという感じもするが、いちおうHMVの説明によると「CD41枚のうち、約18枚分が世界初発売となっており、これまでホロヴィッツの演奏では聴くことのできなかった、ブラームスの間奏曲変ホ長調作品119-4に、ドビュッシーの『子供の領分』第5曲「小さな羊飼い」の2曲が含まれるのも注目されるところです。」とのことで、これまでは海賊版ですごい音質だったジョージ・セルとのチャイ・コンも正規版でおそらくそれなりの音になるようだし、値段も予約すると22670円が13850円とかなり割引されるので、えいやあ、と注文してまったわけであった... 感想はまた追って。8月到着とか。