2012年9月16日日曜日

ルソー生誕300周年シンポin恵比寿・日仏会館

 16日、日曜日。10時より恵比寿・日仏会館でルソー生誕300周年シンポの3日目を拝聴しに行く。『村の占い師』の演奏は聴かずに帰宅(すいません...)。レチフ論の方は締め切りがピンチだが、頭がとまってしまって進まず。明日からの1週間で何とかしなければならない。院試も始まるが...

10:00–12:00 【セッション7】 ルソーの共和国思想
19. 川合清隆(甲南大学)「マブリ師との比較によるルソー・革命・共和国」
20. ジャン=ファビアン・スピッツ(パリ第1大学)
「『正義なき自由は真の矛盾である』―ルソーと現代共和主義」
21. 樋口陽一(日本学士院会員)「国法理論家としてのルソー: 『社会契約論』の副題の意味するもの」
13:20–15:20 【セッション8】 祖国愛とコスモポリタニズム
22. 佐藤淳二(北海道大学)「<開かれたもの>の力:ルソーとジュネーヴの『舞台』」
23. 川出良枝(東京大学)「ルソーと「連邦」構想― パトリオティズムとコスモポリタニズムをつなぐもの?」
24. ブレーズ・バコーフェン(セルジー・ポントワーズ大学)「戦争の政治的理論」
15:40–17:00 【セッション9】 新しいルソー解読へ
25. 増田 真(京都大学)「ルソーにおけるリズム論と夢想の詩学」
26. ヤニック・セイテ(パリ第7大学)「ルソー、分離した言表から分離可能な言表へ」
17:00 閉会の辞 三浦信孝(中央大学、日仏会館)、永見文雄(中央大学)

いずれも充実した発表だったが、したとりわけ セイテ氏の発表に興味を覚えた。連続的なディスクールを志向し、読者が自分を持続的注意をもって読んでくれることを要求するルソー(『対話』)は、当時の書評形式であるextrait(énoncé détaché)に抵抗するが、他方でdétachableな文を書いていたのでもあり、19世紀にかけて多くの撰文集となって受容されていった、という。

2012年9月2日日曜日

ジャストフィット症候群(ふたたび)

 8月28日に文科大臣より「大学入学者選抜の改善をはじめとする高等学校教育と大学教育の円滑な接続と連携の強化のための方策について」についての諮問があった。
大学入学者選抜の改善をはじめとする高等学校教育と大学教育の円滑な接続と連携の強化のための方策について 文部科学大臣 平野 博文
(理由)  グローバル化、情報化、少子高齢化など社会構造が大きく変化し、先を見通すことの難しい時代にあっては、生涯を通じ不断に主体的に学び考える力、予想外の事態を自らの力で乗り越えることのできる力、グローバル化に対応し活力ある社会づくりに貢献することのできる力などの 育成が特に重要となる。
 このような力は、学校教育においては、各学校段階における質の高い教育と相互の有機的な連携を通じて育むべきものであり、そのために多くの関係者が努力を重ねている。
 しかし、特に高等学校教育と大学教育との接続・連携については、大学入学者選抜制度の在り方を含め様々な課題が指摘されており、国民からの期待に十分には応え切れていないと言わざるを得ない。
 高等学校教育、大学入学者選抜、大学教育は相互に密接に関連し合うものであり、そのいずれかに責任を帰すことによっては問題を解決することはできない。
 我が国の将来を担う生徒・学生が、これからの時代に求められる力を確実に身に付け、それぞれの持つ可能性を最大限に伸ばすためには、高等学校教育、大学入 学者選抜、大学教育の在り方を一体としてとらえ、その円滑な接続と連携のもとに、高等学校教育の質保証、大学入学者選抜の改善、大学教育の質的転換を進めることが喫緊の課題となっている。
 このため、国内外の様々な教育の質保証のための仕組みや構想、高等学校教育及び大学教育に関する課題についての検討状況等を踏まえつつ、特に次の事項について、高等学校及び大学の関係者を含め、早急に議論を深める必要がある。
・ 大学入学者選抜の改善をはじめとする高等学校教育と大学教育の円滑な接続と連携の強化のための方策について
 この文書は〈接続〉と〈断絶〉をキー概念にして書かれている。グローバル化した現代社会は見通すことのできない世界であり、だからこそ既存の知識に依存せず、自分で主体的に考える力が必要である。これが現状分析。いわばシステム化できな世界をまえにして、個々人がシステムの外部を直観して、独自に考え動くことができる、そんな能力が夢想されている。他方で、現状分析をふまえて提出されるヴィジョンは、高校から大学までの教育課程を「相互の密接に関連させ」「一体としてとらえ」て、「その円滑な接続と連携のもとに」教育システムの改善を図るべきだ、というものである。
 疑問や矛盾を感じないだろうか。現状分析はシステム化、あるいはプログラム化の限界を指摘しているのだが、それに対処するためには、より徹底的にシステム化、プログラム化せよ、という答えが提示されている。問題は、システム外的なできごとに対していかに敏感になり、いかに的確な方策を生み出すかなのだが、そうした例外的行為はほかならぬシステムやプログラムの完璧化こそが生み出すことができる──文科省はそう考えているのである。
 こうしうシステム思考は、もはや日本の教育者のみならず経営者、政治家、官僚の宿痾のようなものになってしまっているが、ここでは諮問されている入試に関してだけ簡単に感想を述べておく。
 高校から大学へのスムーズな移行というものが昨今強く求められている。大学で学ぶための十分な学力がないから、事前の補習が必要であるといって、少なからぬ大学で多くの努力が払われてている。このギャップを、入試の改革によって改善できないのか、というのが改革論の基本モチーフなのであろう。
 本音を言えば、まずギャップを語る前に定員を1割減らして、各大学がその適正レベルの学生の教育によりいっそう集中できる環境を作るべきであろうと思う。
 もうひとつ気になるのは、ここにみられる入試における「ジャストフィット症候群」である。高校を卒業すると、そのままスムーズに大学の学修に移行でき、多大な苦労をすることがない、というのが文科省の描く教育過程のイメージであるらしいのだが、私はそうしたイメージには多大の疑惑を抱いている。高校と大学では教科の内容のとらえ方に雲泥の差がある。数学や物理・化学でもそうであろうが、語学でいえば中高で数年かけてきた文法を大学は1年弱ですませる。対象を知的に捉えるさいの方法や力量として求められるものは、高校レベルとは異なる。率直にいって、ここにスムーズな移行があるなどとは思えないし、私は場合によっては大学とは「崖登り」をする場所だから、一歩一歩登ろうなどとしてはいけないと言うことがある。
 それはともあれ、スムーズな移行を言う論者は、結局、高校や大学の個々の場に於いて真剣に身につけるべき基礎的な能力についての認識があいまいなのだろう。大学に入ったら、大学で求められるやり方で、その段階で努力して習得したらいい。スムーズな移行などを夢想して、先取りばかり考えていると、その時その時の課題を直視できなくなってしまうのではないか。人間はその場に放り込まれると隠れていたポテンシャルを発揮して求められる能力を開花させることができるものなのではないか。学びの場の自立性を信じて、それをプロセスなどに解消して安心してしまわないようにしよう。ありもしない逐次プログラム化の幻想などに騙されてはならない。