2011年1月5日水曜日

哀悼:中村富十郎。

 中村富十郎が亡くなった。正直、かなり驚くとともに、失われたものの大きさを思いしばし呆然とした。去年の秋に「浮かれ坊主」を見たのが私にとっての最後の富十郎であったということになる。無駄なものがすべてそぎ落とされたような、踊りの「本質」そのものがそこに現出しているような、そんな稀有な感覚を覚えた舞台だった。彼の踊りや芝居は数多く見てきたし、富十郎の名があるだけで見に行きたいと思わせるほど魅力のある役者だった。

 初期の記憶で覚えているのは、学生の時に南座の顔見世で見た「舟弁慶」。静御前の舞と後ジテの知盛ともに素晴らしい出来であった。同じ南座では、かのアカデミッシャンのフュマロリを案内して富十郎の「娘道成寺」を見た。同じ公演で富十郎は「らくだ」の半次を演じていて(久六は勘九郎だった)、フュマロリは同じ役者がこんなにも違う役を演じ分けられるのに驚嘆していた。矢車会での雀右衛門との「二人椀久」ももちろん忘れがたい。「勧進帳」では富樫が定位置という感じだったが、中座では彼の弁慶も見ることができた。「滝流し」をちゃんと踊って見せてくれたのは彼だけである。「熊谷陣屋」の弥陀六(宗清)、「白浪五人男」の日本駄右衛門、「対面」の工藤、などなどよく演じたものも多いが、この他にも、「伽羅先代萩」の対決の場で名裁判官細川勝元を演じたさいの弁舌の冴えは素晴らしかった(これはもっと再演されてよい演目だったと思う)。

 富十郎は踊りの天才であった。彼とは別の面でより優れた魅力を発揮した踊り手はもちろんいるが、踊りの本質において彼ほどの天賦の才を見せた役者はいないであろう。ヴァレリーにならって言えば、彼の踊りは偶然や恣意性の中に「必然」を作り出して見せる。彼の身振りのひとつひとつが、まさにそのように動くしかないという必然性を観客に感じさせる。生来の混乱を内部に抱え込んでしまった私にとって、富十郎の踊りを見ることは──越路大夫の義太夫とホロヴィッツのピアノとならんで──この混乱を宥めるための特権的な方法だった。そして、私はほとんど富十郎を見ることを通して歌舞伎や踊りがどういうものかを理解したと言っても過言ではない。彼にとってプラトン的なイデア論は空虚な形而上学などではなく、踊る彼自身が受肉化したイデアだったようにさえ思われる。こうした物言いは大仰だけど、彼にはこのような「神話」を確信させてしまうような力があった。

 いまや彼は肉を捨てイデアそのものとなった。富十郎というイデアを受肉化するのは残された者たちの使命である。