2011年6月25日土曜日

歌六の釣船三婦。

 24日金曜日。1限のフランス語初級に行く。Pascal au Japonの第4-6課のdialogueの暗唱テスト。ついで小テストの返却と解説(これはT.A.氏担当)。最後に、Carla BruniのLe plue beau du quartierを聞く。どうも学生に聞くとフランスから連想されるものにサルコジ大統領があるようで、まあ、こちらをとりあげるのはなんとなく不愉快なので、奥さんの方に登場願ったというわけ。2限は雑用処理。はやめにコンビニ冷やしうどんを食べ、昼休みはしばし昼寝。3限はフーコーで、『狂気の歴史』のガリマール版の序文を読んだ。これは、序文など書きたくない、なぜなら、序文によって本の内容はこうだと作者からお墨付きを与えるのではなく、それぞれの読者が本に自由に模像(シミュラークル)を与えるのが望ましいから、といういかにも68年の思想らしいことが書いてあった。4限はニーチェ講読。早々に退散し、荻窪で泳いでから帰宅。どっぷりと疲れ、早めに寝た。

 25日土曜日。10時頃からぼちぼちと『三声』を読む。1917年の5-7月はルイスとのやりとりが頻繁で、この期間だけで140頁ほどもある。集中最後の盛り上がり。3時過ぎに家を出て、新橋演舞場へ。歌舞伎の夜の部を観る。お目当ては歌六さんの釣船三婦だが、なぜか最初に宇野信夫の『吹雪峠』なぞが出ている。くだらない芝居だ。歌舞伎をわざわざ観に来ているのに、なぜ出来の悪いリアリズム演劇、人間心理の深層をえぐった、とでも称するものを観なくてはいけないのか、正直疑問。真山青果や岡本綺堂は我慢できるし、富十郎なぞがすれば素晴らしい効果が出ているのも分かるが、この宇野作品はかなりひどい。それにリアリズムでやるならば、病持ちの男が焚き火の煙に顔も背けず木をくべるなぞということがあるのか。ドライアイスかなにかの煙であることが実感されるような演出が反省されるべきであろう。圓生の『鰍沢』の寒さの表現は、たんに座って話しているだけだが、同じリアリズムでも、レベルが違う。『夏祭浪花鑑』は、吉右衛門が団七、仁左衛門が徳兵衛、歌六が釣船三婦、芝雀がお梶、段四郎が義平次。現代歌舞伎の最高の組み合わせであろう。率直に言うと、吉右衛門の団七はあまりはまり役ではない気がする。仁左衛門は上方出身だけあって、こういうものはすばらしい。そして歌六さんが本当に良い。上方チョイ悪おやじなのだが、この芝居の主軸をなす役どころを魅力たっぷりに演じていた。残念なのは福助のお辰(徳兵衛女房)で、顔に色気のある若い女に若い男(磯之丞)を預けることはできない、と三婦にいわれて、焼けた鉄弓を顔に押しつける気丈な役だが、吉本新喜劇のような不思議な軽さと、決まるべきときに決まれない技量のなさは目も覆わんばかり。最後花道で、徳兵衛は顔ではなく心に惚れている、と決まるところも、妙な高い調子で不思議でした。これなら、以前、歌舞伎座でやった勘太郎くんのほうがはるかに上手い。正直、芝雀さんのお辰を観てみたかった。ほとんどやらない役どころだろうが、こういうのをどうやるのか、興味深い。最後の『かさね』は、時蔵さんの踊り(とくにクドキのところ)がすてきでした。染之助もこういう複雑な芝居のいらない単純な色悪だと持って生まれたものの良さがよくわかる。延寿太夫は昔よりはましなのだろうが、まあ、こんな清元ではcharmされまい。

2011年6月9日木曜日

若きパルクについてのルイスの批評。

 8日水曜日。2限の院ゼミに行く。Sainteを読む。昼はコンビニ冷やしうどん。そういえば駅前のローソンは蛍光灯をLED照明に変えているところだった。打大も企業家精神を標榜するのだから見習うべき。1時半から教授会。FDなるものもあり、6時頃終了。Yさんと「葱や平吉」で飲む。

 9日木曜日。7時過ぎから『三声』の続き。9時前に家を出て、10時から大学で会議ひとつ。11時半頃に解放されたので、駅前で蕎麦を食べ、そのまま荻窪に出て、泳ぐ。帰宅後、しばし昼寝をしてから『三声』の続き。具体的にLa Jeune Parqueを巡るやりとりになってきた。初めの部分を初めて見せられたルイスは、6月7日の手紙(p. 1093)で、その美しさと、ヴァレリーが詩を再開したことに涙を流す(彼が若きヴァレリーをモンペリエの田舎から「発見」したのだから、思いは深い)。6月26日には、最後の部分のうち46行ほどを見せられて、そのうちの気に入らないところ(高踏派的なornerやpourpre, d'orなどの語)や気に入った詩句を伝えている。次の( )内が気に入らない箇所、=や─は気に入った詩句である(p. 1103)。

  Trouveras-tu jamais plus (transparente) mort
= Ni de pente plus pure où je rampe à ma perte
─ Que sur ce long regard de victime entr'ouverte,
─ Pâle, qui se résigne, et saigne sans regret ?
= Que lui fait tout le sang qui n'est plus son secret ?
  Dans quelle blanche paix cette (pourpre) la laisse
  À l'extrême de l'être et (belle de) faiblesse !
  Elle calme le temps qui la vient abolir,
= Le moment souverain ne la peut plus pâlir.
  (Que boive le soleil ce flot qu'elle dédaigne)
  Que le jour en ruine (orne) ce flanc qui saigne,
  (Que, mesurant leur gloire aux grandeurs de ces yeux,)
  S'assombrisse le sable et s'effacent les cieux !
  La forme vide baise une (pourpre) fontaine.
= Elle se fait toujours plus seule et plus lointaine.

決定稿の対応箇所は次のとおり──。

Trouveras-tu jamais plus transparente mort
Ni de pente plus pure où je rampe à ma perte
Que sur ce long regard de victime entr’ouverte,
Pâle, qui se résigne et saigne sans regret ?
Que lui fait tout le sang qui n’est plus son secret ?
Dans quelle blanche paix cette pourpre la laisse,
À l’extrême de l’être et belle de faiblesse !
Elle calme le temps qui la vient abolir,
Le moment souverain ne la peut plus pâlir,
Tant la chair vide baise une sombre fontaine !
Elle se fait toujours plus seule et plus lointaine...

ルイスの指摘した箇所はすべてではないが、削除されたり訂正されたりしている。私感としても、彼が( )を付した箇所が弱いのは確かであるように思う。もっともplus tansparente mortにはこだわりがあっただろうが。Que lui fait tout le sang qui n'est plus son secret ?はルイス好みでもある。que... qui...と微細な差異によって反復的に区切りを入れ、lui - plus、fait - n'estのassonanceや、sang - son secretのallitérationが半句の対称性を強調しているあたりは、構造的に見事であろう。以下は、試訳──。

 おまえは見出す、この上なく透明な死と、
私が破滅に至るまで這い進むこの上なく純粋な斜面とを、
なかば身をひらいた犠牲者のあの長い視線の中、
青白く、あきらめ、悔いもなく血を流す犠牲者の視線の中に。
もはやその秘密であることをやめた全身の血はこの犠牲者に何をするのか ?
この緋は、色あせたどんな平和の中にこの人を置き去りにするのか、
それは存在の極限、残されたのは脆弱に美しい女!
彼女は自分の命を消し去ろう迫る時を和らげ、
至高の瞬間は彼女をもはや蒼白にできない、
それほどに空虚な肉体は薄暗い泉に口づけるのだ!……
彼女はますます孤独になり、遠ざかる……

2011年6月7日火曜日

バドゥラ=スコダのベートーヴェン。

 6日月曜日。未明3時半頃に胃痛で眼が覚める。うーむ。解せないこと。胃薬を服用して再度寝る。午後半ばまで起きたり寝たり。胃痛自体は午前中には収まったが、なんとなくだるいのでおとなしくしている。3時過ぎに家を出て大学へ。MallarméのSainteの流れで、しばし『カンタベリー物語』の聖セシリアの件を読む。6時から会議。7時過ぎに終わり、先生方と「葱や平吉」へ。健康診断もあるし、朝の胃痛もあったので、ビールはコップ一杯。あとはウーロン茶で葱を食べる。とはいえ、少々食べ過ぎたかもしれぬ.......。

 7日火曜日。1限のフランス語初級、2限の院講読とふたつ授業をする。初級は第4課が終わった。例のごとく、質問しないとどんどん進むよ、というと、なかなか感心なことに二つほど質問が出た。良いこと。昼は、Sainteの注釈をしばし眺める。健康診断なので昼食は食べられず。で、1時過ぎに診断に赴く。2時過ぎに解放され、一路荻窪へ。ルミネ上の「洋食亭ブラームス」でカツカレーを食べ遅めの昼食。家に戻って、夕方しばしお夕寝したほかは、『三声』のつづき。いよいよ第一次世界大戦のあたりまで来た。『若きパルク』をめぐるルイスとのやりとりを詳しく見るのが今後の課題。

 最近引っ張りだしているバドゥラ=スコダのベートーヴェン・ソナタ全集だが、改めて聞き直してみて、すばらしさを再確認した。これは当時のピアノフォルテで弾いていて、初期のソナタは、楽器のせいか、ずいぶんと弾きにくそうにしているが、ワルトシュタインや熱情から、ハンマークラヴィーアや後期ソナタのあたりになると、楽器としても扱いが楽なのか、テクニック的にも安定し、演奏の良さが引き立つ。この人には、音楽の喜びに対して確固とした実感があり、それが演奏を裏打ちしているために、聞いていてこちらも(静かにだが)高揚してくる。ベートーヴェンのあまたある録音、演奏のなかでも出色のものであろう。というか、この人の演奏を聴いていると、彼のステージでの姿の思い出もあって、なにか愛してしまうのだった。そんな魅力がバドゥラ=スコダにはある。